とある喪男の雑記ブログ

喪男とはモテない男のことです。寝ることと知的ぶることが好きな、意識低い系喪男の雑記ブログ。流されることなく、流れるように、ゴミみたいな人生を、頑張らないで生きていく。全体的に低スペック。絶食系男子。鉄オタ。飛行機オタ。城址仏閣好き。

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小さな哲学者・中島バオくんとは何だったのか

哲学とは思考そのものである

ニーチェヴィトゲンシュタイン、カント、ヘーゲルキェルケゴールデカルト、等々の錚々たる哲学者の本が僕の書棚には並んでいる。しかし、自信をもって「理解した」と宣言できる哲学はこの中にどれ1つとてない。

最後まで読み進められたのは、キケローの短著「老年について」や、セネカの「生の短さについて」という本くらいだ。この2著はとてもおもしろかったし、今でも時折読み返す。かといってストア派であるかといえばそうでもない。

哲学とは、誠実であるということだ

問い続けなければ、考え続けなければ、検証し続けなければ、誠実でなければ、それは哲学ではない。誠実に生きなければならないという道徳的規範を前にして、そうはできない事実を認識し、恥じ、悔み、そして受け入れながらも、それでも改善していこうと、そして誠実に生きようとする取り組みそのものが哲学である

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哲学的に生きること哲学を志す人は、何よりも自分の思考や判斷、魂、挟持、それらをひとまとめにした「精神」に対して自身の誠実さを要求する。それは、自分の精神と他人の価値判断系を明確に分離し、そこから自分の精神のみを確立する。そして自分の精神と相対するにあたり、嘘や欺瞞があってはならない。

一方で社会的に生きていくにあたって、社会的な正しさと自分の精神が相反することによって葛藤が生まれる。場合によっては自分の精神を裏切ることもあるだろう。それによって人は苦しむことになる。その苦しみの中で人は、自分の精神をより優れたものにしていく。

ソクラテスが語った「善く生きる」という目標は、それを端的に言い表したものだろう。その苦しみを認知してこそ、善く生きることができる。

なぜ哲学は難しい。けれど誰でも哲学者になれる

また中島義道はこう語っている。「哲学が難しいのは、けっしてその言葉が難しいからではない。私たちにとって、自分の最も関心のある問いを徹底的にごまかさずに問い続けることが難しいからです」。

何しろ、哲学というのは、カントの定言命法やらニーチェ永劫回帰などを小難しく語ることでもなければ、この世の真理っぽい一言二言の文句を叩きつけて終わるものでもない。

哲学というのは、生き方そのものであるはずだ。常に問い続け、検証し続け、行動し続け、それによって苦しみ続け、自分の精神をより善く磨き上げるための行為そのものであるはずだ。

そういうわけで哲学というのは本来、限られた人々のものではない。善く生きようとするすべての人々は哲学者である。

哲学的であることは、人生のあらゆる局面においての不合理と、理不尽さと、非社会性と、嫉妬と、恐怖と、言行不一致の全てについて、欺瞞的に取り組むことのない実践的な態度を意味する。

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哲学者はいつも自身に問うている。ある行為に対して、道徳的に正しいか、社会的に正しいか、そして自分としてはそれをしたいか、したくないか。哲学者は何らかの決断をし、それに従って行動する。それが正しかったか、もっと良い手段や判断基準があったのではないかと検証する。あるいは行為後に、その行為と自分の価値観との間で葛藤し、また行為と道徳的規範との間で悶絶する

哲学者は、それを「まぁそういうものだろう」とか「しょうがないよね」とか「みんなそうするから」で思考を決着させたりない。ちなみにニーチェはこうした安直な決着を試みる連中を「畜群」として軽蔑しているが、そうした軽々しい言葉によって葛藤を収束させることは、まさしく欺瞞的であり、誠実ではない。哲学者はそれを自身に許容しない。それが哲学的でない態度だということを肌身で知っているからである。

このように、全ての物事に対して欺瞞的であることを許容せず、社会生活上致し方なく葛藤に決着させたことを恥じたり悔いたりする限り、誰でも哲学者になることができる

哲学者と哲学研究者との違い

一方で、カントがこう言ったとか、ニーチェがいかにしてヘーゲルを否定したかということを論じる人々がある。彼らは哲学研究者、あるいは学位を持つ哲学領域の研究者という意味合いでの哲学者である。

この意味における哲学者は、上述のように哲学的態度をとる必要はない。女癖が悪かったり浪費癖があるような、およそ哲学に携わる者としての一般的な人物像から程遠い気性の持ち主であったとしても、研究し論文を書くことはできるからである。研究者としての哲学者は、研究能力(と一定の社会性)があれば、その人間性は問われないのだ。

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哲学理論家という存在

そして哲学者と呼ばれるニーチェ、カント、ヘーゲルらは?彼らは理論家にして著述家である。キリスト教精神やギリシア哲学、イギリス経験論、ドイツ観念論などが出発点になり、それに対しての反駁と擁護が彼らの思考にあり、それが理論化され、説明と解釈を与え、著述として記録に残した。それを後世の「哲学研究者」がああでもないこうでもないと論じているというわけである。

バオくんはそもそも哲学者なのか?

さて、バオくんの話に立ち返ってみると、彼は「小さな哲学者」という二つ名がついている。僕の理解では、彼は明らかに研究者としての哲学者ではない。僕の知る限り、(年齢的にも)彼は別に研究室や資料館にこもってカントやヘーゲルの原著にあたり、その理論に独自の解釈を与えているような研究者ではないからだ。

一方で彼は自分でいろいろものを考えている。それは立派な哲学者としての態度であると思うし、しかもその思考を言語化するという才能までもっている。その意味で僕はバオくんを肯定している。考えることと説明を与えることというのは大事だ。行きたくもない学校へ行かなくとも済む方法を考えて実践するのは、目の前の不合理性や恐怖、非社会性に対しての態度としても評価できる。

と、ここまで彼を評価した上で、僕は彼が著した「見てる、知ってる、考えてる」という本に対して、表現の自由のもとにそれを論考し私見を晒してみよう。

実のところ、 僕は彼の本を読んだわけではない。けれども多くのウェブサイトやブログから、彼が放ったという名言を拾うことができる。いい時代になったものだ。そして、別に彼が何を言おうとも、子供の無謬性を疑いもなく信じる大人どもの不快さが伝わってくること以外は、僕にとって何も問題ない。

物事に重さはない。ただ、その人が『重い』と感じている。ただそれだけ!

彼が放ち、世界中の人々の心を打ったというこの「名言」。実はニーチェが似たようなことを述べている。「事実は存在しない、解釈があるだけだ」と。「重いも軽いも、その人の考え方や捉え方1つでどうにかなるものだよ」というわけだ。

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僕もこの点については異論はない。しかし2点、僕は指摘しなければならない。

まず、この「名言」が大人に突き刺さって感動を呼び起こしたということに、僕は問題を見出す。ある人がある特定の問題を認知したとして、それが様々な感情に満ちた解釈を与える。しかしそう解釈を与えた自分自身の判断基準系を認知することができない。

それを10歳の少年に突きつけられなければ分からなかったほど思考の足りない大人どもが、世の中に一定数存在しているというわけだ。こちらのほうがずっと問題ではないか?一体何を考えているんだ。何も考えていないのか。

そして先程の、ニーチェのいう「畜群」を僕は発見する。何の疑問の余地もなく、たかだか10歳の子供の発言を受け入れて条件反射的に感動してしまう、この大人どもの浅薄さである。

思考を打ち切ってしまうこと自体、哲学に対して冒涜的である。

そしてバオくんの「それだけ!」の部分。これはいくら度量の広い僕といえども反駁を加えざるを得ない。

解釈はどうにでもなるので、僕は少々悪意をもって解釈してみよう。すなわち、「物事の重みは人それぞれだし、勝手にお前がそれを重いと感じているだけ。話は終わり!」というわけだ。「それだけ!」は、断定口調とその感嘆符によって、有無を言わさずそこで話を強制終了させるような勢いを持っている。

あぁ、なんて破壊力のある言葉だろう。全てはここで終わってしまうだろう。

哲学者は物事の重さに干渉してはいけない

そうではない。話を終わらせてはいけないのだ。今自分を煩わせている何かの物事の軽重を、他人が矮小化してはいけないし、あるいはそうするように働きかけてもいけない。誰から見ても軽いような物事でも、それがあまりにも重くて生きづらさを感じている人がいる。その物事を抱えて生きていく苦しみを、他人が強制的に取り払ってはならない

人が物事に感じる「重み」。それはその人にしか言語化できず、他人から見たら不明なものだ。だがそれらを許容しつつ、より善く生きようとする姿を模索することこそが哲学である。

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繰り返すが、自分の魂や精神に誠実でなければならない。自分の魂や精神が確立しており、独立的でなければならない。自分が確立されていない大人どもは、「それだけ!」と決めつけられることに快感を覚える。大人のくせに、自分で決めることができないからだ

必要性にかられて何かの結論をつけたとしても、果たしてそれで善く生きているのだろうかという問いが常になくてはならない。人生の豊かさというのはそういうことだし、哲学というのはそういう生き方だ。

哲学者は思考を強制終了させてはいけない

「それだけ!」は、その血を吐くような思考の試みと苦しみを完全に分断し、強制終了させてしまうだろう。それ以上思索が深まることはない。しかし、哲学とは思索と苦しみの存在が前提である。「それだけ!」によって決着をつけ、そこにそれ以上の思索がないのなら、どこぞのカウンセラーならいいのかもしれないが、哲学的に明らかに誤っているのだ。

しかし彼は哲学者を名乗っているのだ。だからこそ、それは哲学者として哲学に対して不誠実な態度と評価せざるを得ない。哲学とは、思考と実践によって人生の折り合いをつけていき、その折り合いのつけ方自体が欺瞞的ではないかという検証と思考の繰り返しなのだ。

彼はこれから中学校に進学し、登校もするという。おそらくそこで様々な問題に取り組まなければいけないだろう。

「それだけ!」と全てを終わらせるのではなく、これから降りかかるであろう理不尽と戦いつつも、引き続き彼が哲学的に生きていくこと、そして彼なりの「善く生きる」を見つけられるよう、僕は願ってやまない。

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