どうせ死んでしまうし親になりたくないし反出生主義者になろうぜ
僕の小学校時代、卒業式でのことである。僕たち卒業生は順番にセリフを唱えるのであるが、その中で僕たちは高らかに「輝かしい未来へ、希望をもって羽ばたく」と宣言したことをよく覚えている。
それから20年が経ち、僕はうだつの上がらないサラリーマンとして働いている。輝かしい未来も希望もなかったことはとっくにわかっている。僕自身に優れた点は何一つなく、サッカー選手にもなれなかったし、パイロットにもなれなかった。
別に収入が高いわけでもない。背も平均以下。もう若いとはいえない年齢。髪にはよくよく見ると白いものが混じっている。僕は自分自身の現状維持で精一杯だ。
暗い時代に適応する、反出生主義者という生き方
愛する我が子のために、反出生主義を貫く
だから僕は、僕の子供が生まれてくることのないよう願ってやまない。生まれてこなくともよいところにわざわざ生まれてきて不幸になることほど、非合理的なものはない。
僕は子供が別に嫌いではないし、自分のこともであるならばそれ相応の愛情を注ぐことも能力的には可能だろう。けれどもそれをしないのは、僕が自分の子供を愛するがゆえであると説明しよう。僕はどうしても、 金銭的に、社会的に、あるいは人間関係的にといったあらゆる意味で、愛する自分の子供を苦しませたくないのだ。
我が子が生まれなければ、そんな苦しみを抱えながら生きていくこともない。生まれてこなければ不幸にはならない。それが非合理的とは思えない。僕は今ここに、反出生主義者であることを宣言する。
ブッダ「この世に幸福な人などありはしない」
実のところ、僕自身、どうせ死んでしまうのになぜ生きるのかという問いに答えられていないのだ。
絶対的な死が約束されており、その意味で人生は不幸である。そんなわけで多くの人々は、その死ぬまでの間にどれだけ幸せを感じられるか(幸せになれるか、ではないことにも注目してほしい)を追い求めることになるのだが、それはそれで死を軽視しているようだし、あるいは死の存在を意識しないように努力しているように見える。
生きることは死ぬことと不可分なのだから、自分が死ぬという事実に向き合わないのは、人生に対しての冒涜である気さえする。
僕は自分の死を直視するしかない。結婚するとか子供をもうけるとか、そういったことよりも自分の人生の終焉のほうが僕にとってははるかに重要な問題だ。僕はそれが解決できなくて大変苦しんでいる。我が子が生まれれば、その子もいずれ同じように苦しむことになるだろう。僕は愛する我が子に苦しみを味あわせたくない。
反出生主義。親になるに不適格であることを認めるのにこれほど素晴らしい表現はあるまい。子供を不幸にするよりは、喜んで反出生主義を宣言し、不幸な子供を量産しないようにつとめよう。