とある喪男の雑記ブログ

喪男とはモテない男のことです。寝ることと知的ぶることが好きな、意識低い系喪男の雑記ブログ。流されることなく、流れるように、ゴミみたいな人生を、頑張らないで生きていく。全体的に低スペック。絶食系男子。鉄オタ。飛行機オタ。城址仏閣好き。

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堂々と「子供は嫌いだ」と言える大人になろう

子供を嫌う大人がいる

「子供が嫌いだ」と公言したとき、どのような仕打ちを受けるかを僕たちはよく知っている。「薄情者」、「人間としておかしい」、「子供は可愛いのに何で嫌うの?」、「自分も子供だったくせに」などなど、まるで人間のように扱われないのである。一方で僕たちは、そのような子供を嫌う大人が、少数派ながら一定数存在していることを認識している。そしてこの僕も、そのような少数派の1人である。

子供が嫌いだと言ってはいけない理由

子供を嫌う大人が、こうまで一種の思想統制のごとく迫害されるのはなぜか。

僕が思うに、「子供を嫌う」という発想あるいは行動は、ある程度普遍的なものである。客観的に考えて、子供というのは大変厄介な生き物である。大声で泣きわめくし、言うことは聞かないし、すぐ病気になるし、少しでも歩けるようになれば勝手にどこかへ行ってしまい監視の負担が増えるし、それで何か事故やトラブルを起こそうものならそれは親の責任になる。その意味で子供というのは、親にとってトラブル源の総合デパートのようなものである。

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電車やバス、飛行機などの交通機関において、あるいはレストランやショッピングセンターにおいて、子供によって不快な思いをさせられた経験がない人はおそらくないであろう。子供の泣きわめく声は騒音となり、子供が走り回れば「もらい事故」となるし、それが自分と接触しようものなら親どもから糾弾され、あるいは警察の世話になる可能性すらある。それを回避するために、僕たちはそれでも、子供とのトラブルを回避するために全力で気を配っているのだ。前を見ずにこちらに走ってくる子供を回避するための反射神経は、このために大変重要になる。

見方を変えれば、僕たちが子供が走り回っているがために歩きたいように歩けず、新幹線の中において聞きたくもない子供の泣き声を延々と聞き続ける僕たちは、不当に抑圧されていると考えて差し支えない。本来はまっすぐ歩き、あるいはのんびりと車窓を眺めたり居眠りをしたりしたくとも、子供がいるがために、それをすることがかなわないのだ。その意味で僕たち子供嫌いからすれば、子供との接点は不快と抑圧とトラブルしか生まないのである。ゴキブリやネズミやゲジゲジを好きになる人が極めて少ないのと同じことで、不快なものの発生源を好きになるというのは無理筋である。

実のところ、いくら親といえどもそれは同様である。子育てにおける「大変であること」は、肉体的にも精神的にも説明できるが、それを読み解いていくと、おそらく「我慢する」とか「耐え忍ぶ」という行動に集約されるように思われる。親というものは子供を愛し、また子供の成長に目を細め、感動し、あるいは癒やしとする。または社会的には子育て中であるという身分を得ることができ、自らの社会的役割として自らの居場所を「創造する」こともある。そうした利益があるのと表裏一体、親どもは、上述のような子供の言動にストレスを感じ、それを我慢し、耐え忍ぶ。それらは「子育ては大変である」という認識によって説明される。

話はそれるが、一方で、聞き分けの良くおとなしい子供が望まれるかといえばそうではなく、むしろ(大人が処理可能な範囲内で)トラブルを撒き散らす子供のほうが「子供らしさ」があって良いとされることもある。僕たち大人は、子供に上述のような「子供らしさ」を期待し、それは大人が想定する範囲内でなければならず、それを逸脱した子供に容赦なく接するのである。

閑話休題。子供を嫌う大人は、子供における負の側面、すなわちあらゆる騒音源、トラブル源、あるいは病原であるという性質に注目する。そして自分の感じた不快の原因をその子供に帰する。それは極めて合理的な思考である。

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重要な点は、親どももこの不快に耐えている、という事実である。子供に最も身近に接している彼らは、子供が快も不快ももたらすことをよく知っている。親であるから、その不快には耐えなければならない。彼らは、耐えられずにその不満を子供にぶつければ虐待になりうるし、それを家庭内にまき散らせば家庭内不和のもとになることをよく知っているのだ。そしてこう思うのかもしれない。

そうだ、自分は子供がもたらす不快に耐えている。けれども他の人間はそうではない。自分がこれだけ耐えているのにもかかわらず、子供が嫌いであると公言し、泣く子をあやす苦労から開放されている連中がいる。何たる不当!何たる不公平!これを看過してなるか。大人というものは子供を好きであり、快も不快も許容されるべきなのだ!そもそも全ての大人はかつて子供だったのだ。かつての自らの分身を嫌うとは何事か!

子供の幸せを祈る子供嫌いがいる

それであればこそ、僕たちは子供が嫌いだと主張しなければいけない。子供が好きな人とそうでない人のどちらかしか存在できない社会は、多様性の有無の観点でいえば健全ではない。そうだ、後の社会のために、子供が嫌いであるという価値観が存在することを守らなければいけない。

改めて、僕は子供が嫌いだ。けれども生理的に無理かと問われれば、別にそういうわけでもない、子供に危害を加える意図はまったくないし、排除することもない。ただ前述の通り、子供というのは僕たち子供嫌いにとっては不快やトラブルの種でしかないため、それらと可能な限り距離をおいて生活をしたいと考えているのである。子供が生きることそれ自体を否定したり排除することはない。

実のところ、子供が嫌いであることと、子供の幸せな成長を願うことは両立する。僕は、すべての子供たちが、戦争や貧困や飢餓に苦しむことのない未来が訪れることを願っているし、僕たち大人は、子供たちにそんな世界を残してやるために努力する義務がある。僕は、今を生きている、そして未来を生き抜くすべての子供たちの幸福を願ってやまない

できるだけのことはするつもりだが、もちろん僕の気力と体力と能力が許す範囲でである。無理してそれを推進していくつもりはまったくない。そして僕はその責任をとるつもりもない。僕は善良な社会共同体構成員であるが、その共同体が悪い方向に向かうことについて、それを止めるための努力はするが、それは自分の気力と体力と能力と興味関心が及ぶ範囲内でである。そうでない範囲のことは知ったことではないし、ましてや僕に責任が負わされるという話でもない。

僕たち大人は、すべての子供達が、生まれてきてよかったと思える世界をつくる努力をしよう。

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