とある喪男の雑記ブログ

喪男とはモテない男のことです。寝ることと知的ぶることが好きな、意識低い系喪男の雑記ブログ。流されることなく、流れるように、ゴミみたいな人生を、頑張らないで生きていく。全体的に低スペック。絶食系男子。鉄オタ。飛行機オタ。城址仏閣好き。

☆スポンサードリンク☆

独身だから既婚の友人を遊びに誘えない~友人関係は無くなってもいい~

僕も30歳をいくつか過ぎた年齢となった。このくらいになると、周りの友人はだいたい結婚し、すでに子供がいるということも多い。

僕はここ最近、一人で行動することが非常に増えた。もともと一人行動が多いほうだが、時たま友人と会って何かする、みたいなこともなくはなかった。けれども、友人はみな結婚し、あるいは子供が生まれ、お互いがお互いを誘いづらくなってしまったのだ。

こういう場合においてよく起こるのは、独身である僕が誘う→既婚である友人が断る、という一連の流れである。それが何度も繰り返されれば、僕たち独身は既婚の友人をそもそも遊びには誘わなくなる。連絡しても忙しくて来れないだろう、と。

既婚の友人にも言い分がある

家族が全てに優先するのは当然のことである。なぜならば家族に対して自分は、あらゆる意味で快適な生活を担保することに責任があるからである。僕たちと遊びにいくことによって、その責任が放棄されてはならない。誘ってもらえるのはありがたいが、どうしても家族が最優先であり、それによって泣く泣く断りを入れなければならなくなることを理解してほしい。自分とてタイミングが合えばぜひとも遊びにいきたいのだから。

なるほど、立場を入れ替えて考えてみると、僕が何度誘おうとも、様々な如何ともし難い理由によって、その誘いは実現することはないのである。想定していたことではあったが、それが何度も繰り返されると誘う側のモチベーションも低くなるものである。僕の友人への期待は、遊びにいくことではなく、返信をしてくれることになった。そうしていつしか返信すらまともに来なくなり、僕はかつての友人と連絡を取らなくなった。それは僕にとって友人を失うことを意味した。

これは1つの円満な友人関係の自然消滅のかたちである。けれども友人関係がそうして無くなっていくのは悪いことではない。僕たちが人生を歩むごとに、個人を取り巻く友人関係には必ず変化があるからだ。付き合いが長いからと言って、瓦解しつつある友人関係を維持することに固執するべきではない。

人生のステージごとに友人は入れ替わる

僕たちは人生を歩んでいくとき、ある者は大学に進学し、またある者は高卒で就職する。またある者は結婚し、またある者は独身のままでいる。人生の節目節目において、僕たちは人生のステージを違えていくのである。

思い出してみるがいい。かつて遊んだ友達の中で、卒業してから連絡を取らなくなっていった人があるだろう。話はそれと同じことだ。

友人の方は新たな人生の伴侶を得て、また新たな生命を守り育てていくという使命に取り組んでいる。一方の僕は、人生の伴侶を得る予定もそんなつもりもなく、ましてや僕の血を引く新たな生命をこしらえることにすら否定的である。それが僕の人間的な魅力の無さによることは明らかであるが、やはり友人と僕とは、人生のステージがすでに異なるのだということを認識する。

f:id:junny-policies:20180930200721j:plain

人生というレールは交わりと分岐の繰り返し。30を過ぎると実感できるようになる。どこかでまた交わる時があってもいいし、それが一生なくともいい。縁があれば、また会える。縁がなければ、今生の別れ。

今の縁は大切に。けれど、終わりに向かっている縁を無理に繋ぎ止めるのは、誰も幸せになれないと思う。だから別れるべきなのだ。

ところで僕は、その友人のことならともかく、その友人の子供や嫁のことなど、大して興味がない。子供の首が座った。お遊戯会で褒められた。そんな話を聞いたところで、僕の人生が変わることはないのだから、関心を払うに値しない情報である。ただ僕の話し相手が既婚者ならば、そういう子供の話、家庭の話、学校や幼稚園の話を多く提供してくるだろう。

そうであるならば、そうした話をする相手として僕を選ぶことは不適切である。

僕の友人は幸いなことに、僕がそういう人間であることをよく知っているから、そういう話を僕にしてこない。そうすると僕と友人は、共通理解が可能な会話ネタに不足することになる。

だから友人は、自分が会話するにふさわしい別の友人を探し当てることになる。それは素晴らしいことに決して僕ではなく、おそらくその友人の現状を理解し協力できるような素敵な友人であるに違いない。

僕はそれを全力で歓迎する。もはや僕は彼の理解者である必要がなくなったのだから。

友人関係を続けるためには共通事項が必要だ

おそらくこれは必然なのだ。そもそも僕と友人とは、たまたま同じ時期に同じ学校で少年期を過ごし、気が合っただけに過ぎないのだ。そこでの経験が僕たちの思考基盤・行動基盤であり、その多くを共有していたのだ。共有事項があったから僕たちは友人でいられたのだ。時が経ってそんな共通基盤が徐々に失われる。「赤の他人」要素の割合が増していく。そしてそれが、お互いに連絡を取らないことでより促進される。そうして友人は他人となる。

遊びに誘いたくとも誘えなくなる僕と、遊びにいきたくともそれに応えられない友人。これからはしばらく他人同士であることだろう。いつか、子育てが落ち着いて、その時に彼が僕のことを覚えていて、かつ僕がその時まで生きていて、お互いの連絡先を知っていたならば、また会おうじゃないか。それまでお別れ、どうぞ達者で。

☆スポンサードリンク☆