どうせキモいし恋愛なんか放棄しようぜ
喪男道というブログがある。
このブログは、レイシストというか、ミソジニーのレベルでイケメンリア充と女性差別に偏っている節があるが、その一部分、恋愛における容姿の重要性については非常に的を射ている部分がある。
容姿に優れる男は恋愛市場において有利である
容姿が優れている、という面での定義のようなものは存在しないと思われるが、目が大きかったり、鼻が高かったり、目と眉毛の距離が近かったり、鼻と口の距離が近かったりで、共通する特徴というものはある。そして生物学的本能により、容姿が優れる=優秀な遺伝子である=魅力的に感じる、という判断になるため、イケメンと美女はモテるという理屈になり、その分容姿が醜悪な人についてはその逆になるのだ。それが意味するのは、容姿が醜悪な人はそもそも興味をもってもらえないという残酷な事実だ。
キモい男の受難の時代
つまり、容姿が優れていない場合、当然恋愛市場においては不利になる。メディアや音楽コンテンツは、自由恋愛を推進してきた。それは個人主義的なものであったが、同時に恋愛競争社会を作り出した。車、酒、ナンパ、サーフィン、バーベキュー…様々なシーンで男は女性を惹きつけなければならず、それにおいて容姿は強力な武器になった。
僕のように容姿が醜悪な男は、キモいと扱われた。背が低く、顔の造形も悪く、とりわけ目が小さく、近眼のためにかけたメガネはその目をさらに小さく見せた。
そしてそのキモいという表現は、容姿のみならず、雰囲気や話し方などまで包括した意味をあらわすようになった。実際僕の雰囲気はいわゆるオタクっぽかったし、話し方も秀麗なものではない自覚はあった。
キモい男からのアプローチは散々に罵倒され、あげつらわれ、後ろ指をさされた。そうしてキモいカテゴリに分類された男は、二度と恋愛対象とされることはなかった。
脱オタや大学デビューを試みて、一生懸命ファッションの勉強をしたり、女が好むといわれるおしゃれなカフェやイタリアン、その他のデートスポット、テレビドラマ、音楽などのコンテンツに手を出すキモい男もいた。そこまで努力しても、キモいというレッテルを剥がすことはできなかった。
僕も同じことをやってみたが、やはり興味がもてないものにはどう頑張っても興味がもてないものである。女性に人気の歌手も好きになれなかったし、人混みでいっぱいのスポットやカフェなどに行く気など起きなかった。僕はそうして疲れてしまった。合わないことはするものじゃない。
そうしてキモい男はみな恋愛市場から退場していった。そしてそれは女が望んできたことだった。彼女たちがほしいアプローチは容姿に優れる男からのアプローチであり、キモい男からのアプローチではなかった。
恋愛市場の唯一の利点というのは、市場価値のない人がそこから退場しても、一定の理解が得られやすいという点ぐらいしかない。それでも場合によっては退場者を指弾しマウントを取りにくる人がないではないが。
セクハラ扱いされるなら女に関わらない
数年の時を経てキモい男が社会人になると、さらにセクハラ問題を考慮する必要がある。女は、キモい男を容易に社会的に抹殺できる武器を手に入れた。セクハラによる訴えである。これにはキモい男だけではなく、
一方で、女に何らかの関わりをもつだけで、僕たちはもはやキモいかキモくないかにかかわらず、セクハラと扱われる可能性があることを認識し、それがために自らの社会的地位を失うリスクがあることを考慮しなければならなくなった。従来どおりに男からアプローチをしてもらいたい、それがセクハラだと私が感じない範囲で、ということだったのだろうが、僕たちはすべからく次のように考えざるを得ない。
そのようなリスクを取ってまで関わりたい女であるか?
おそらくこれは女にとって望ましくなかった。キモくない普通の男まで遠ざけてしまえば、自分たちに対しての需要が減り、恋愛市場においての価値の低下につながるからだ。そして日本の将来、とりわけ少子高齢化問題にとっても、この男女間の断絶は致命的だったと僕は考察している。
まぁそんなことは恋愛市場から追放され続けてきた僕のようなキモい男にはどうでもいいのだが。
さて、セクハラ扱いを回避し続けた結果、僕は恋愛を放棄した。底辺喪男ながらもなんとか生きながらえているのは、社会人としての多少の収入を得られているからだ。社会人としての地位を失うリスクよりも、恋愛を放棄し一生結婚できないリスクのほうが圧倒的に許容できる。むしろ僕のような結婚もせず子供もいない底辺独身喪男にとって、その唯一の社会的役割は、社会人として労働し税金を納めることである。
仮にそれをしなくても、またそれができなくても、普遍的な存在価値や理由は無条件に認められるし、そうでなければならないことを付け加えておこう。そうでないと誤解を生んでしまう。
とにかく、僕にとっての僕自身の社会的な存在価値と理由は、労働と納税(と、それによる弟と猫の生活維持)にあるのであり、それは失ってはならない。それを担保しているのは、社会人という「身分」である。だから僕はこの「身分」を守りにいくのである。たかだか女と関わったくらいでその身分を失ってはならないのである。
恋愛を放棄しても幸福に生きていこう
今でもたまに結婚しないのかと聞かれる。僕はその度に興味がないと答える。僕は電話番号を教えると言って結局教えてくれなかったり、誘い方に問題あったにせよ、出かける誘いにメールの返信をよこさなかったり、イケメンに媚を売り僕を冷たくあしらった女どもの仕打ちを忘れない。僕を恋愛市場から追放しておいて、今更のこのこ舞い戻るなど、僕の矜持が許さないし、何より10年前の僕に対しての女どもの不誠実さを糾弾しなければ僕の気が収まらないし、その意味で本質的に女という生き物を信用できない。
まぁそれでも、もしキモくても、モテなくても、恋愛や結婚をしたいというなら、それはそれで応援されるべきだ。それで成果が出ても出なくても、困難に立ち向かうことはそれだけで価値がある。
僕のように恋愛の放棄を(心の中で)宣言した喪男諸君は、当然その時間やリソースを他のことに割り当てるべきだ。自己啓発でも、猫でも、読書でも、ゲームでも、あるいはただ休日にゴロゴロのんびりするだけでもいい。僕がとにかく言いたいのは、僕たちは恋愛を放棄しても幸福に生きられるはずだ、ということだ。