とある喪男の雑記ブログ

喪男とはモテない男のことです。寝ることと知的ぶることが好きな、意識低い系喪男の雑記ブログ。流されることなく、流れるように、ゴミみたいな人生を、頑張らないで生きていく。全体的に低スペック。絶食系男子。鉄オタ。飛行機オタ。城址仏閣好き。

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モテない僕は女性を好きになったことがない

「人を好きになる」を定義する

思春期に入る小学校高学年の頃から、誰々は誰々が好きという話で盛り上がるものである。それから20年の時が経ち、今の僕にとっての「人を好きになる」という定義は、「無意識的に、ある特定の人のことが頭に浮かんでしまって、その人の言動が気になって仕方ない状態が継続し、自分でもコントロールしがたい状態」であるということになった。

けれども僕は、この状態になったことがない。僕は人を好きになったことがないということになる。

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余談だが、「喪男」はモテない男性を意味するが、本ブログにおける僕のアバターであるこのイラストは、独身男性を意味する「ドクオ」である。似ているようで違う。

僕は自分に自信がなかった

小学校、中学校、高校に至るまで、僕には僕なりに気になっている人というのがいた。けれども僕は自分に自信がなかった。背も低かったし、顔がかっこいいわけでもなかったし、勉強がとりわけできるほどでもなかったし、所属していたサッカー部では(その背の低さもあって)レギュラーになることもなかった。自信というのは今でも僕にはないのだが、とりわけ当時の僕の自信のなさというのは、それらの状況を考慮してみても異常だったとすら思う。

当時の僕は、「気になっている」という段階はありつつも、それと同じくらい「しかしそれはきっと実らない好意である」ということを知っていた。そんな自信のない自分を好きになってもらえる理由もなかっただろうと省みたのは、それからしばらく時間が経ってからだった。僕は結局、好意を断られるのが恐ろしくて、たまに話しかけるくらいだった。そんな僕ごときに応じてくれた彼女はとても優しい性格だったのだろう。今から思えば本当に気色悪いことをしたと思っているし、彼女には大変申し訳ないと思っている。もう会うことはないので別にいいのだが。

とにかく、最初から僕は諦めていた。今でもそれは正しい判断だったと思っている。

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そして僕は、その自信のなさのままに生きてきた。人並みに大学を卒業し、底辺ながらも社会人という役割を得て、猫と弟とともに生きていけるだけの収入がある。そんな自分を悪くないとも思っている。それでも女性に対しての自信は身につかなかった。

時は流れて20年、僕にはたびたび「気になっている」という段階の女性と出会うことがあった。けれども僕は消極的であった。メールアドレスも電話番号も聞かなかった。女性のことが「気になっている」という段階に登るたびに、「それは無理な好意である」と思ってきた。そうすると、数ヶ月も経てば、その女性が気になっているという事実を忘れ去ることができるのである。

そうして僕は、「その人の言動が気になって仕方ない状態が継続」することはなかったのである。

断られるのが恐ろしかったり、または自信がなかったり、それがために僕の「気になる」は、「好意」に育つ前に枯れてしまう。だから僕は人を好きになったことがない。

「承認欲求」と「所有欲」

僕が思うに、「人を好きになる」とは、所有欲承認欲求の現れではないだろうか。

所有欲

僕は猫についてはどうしようもなく好きである。猫というものは、各個で自立した意思のある存在であるが、その意志レベルは動物的であり、直情的であり、飼い主(=所有者)によく懐いてくれる。

人間はどうだろうか。「人を好きになる」というのは「ある人を自分の手元に置いておきたい(=所有したい)」ということは成立するように思える。しかも「所有される側」も、所有者からの援助や庇護を受けられるとあって、所有される側にとっても都合のいいものである。

そうすると、所有する側と所有される側には、明確な上下関係が必要になる。ある人がある人を好きになった時、その関係が対等であることがあるだろうか。「惚れたもの負け」という言葉が示す通り、好きになられた側を上、好きになった側を下とする上下関係が成立しているのではないか。それが対等になっていくのは、その2人の関係性におけるお互いの努力の結果そうなっているだけではないか。

さて、このように「人を好きになる」ことを「所有欲」に結びつけて考えると、僕のような底辺喪男は、人を好きになることなど一生ないと強く思う。何しろ僕は女性に対して所有欲などないからである。所有するのがおこがましく、恐れ多いのである。そしてそれは完全に酸っぱいブドウである。所有したいという欲求が根底にあるという事実から、喪男は逃げてはならない。そうやって自分をごまかしてはいけない。

承認欲求

人間は誰しも他人に受け入れられたいものである。その意味においてこのブログやエントリを説明するのならば、僕がこのように底辺喪男ならではの思考を働かせていることを、インターネットの向こうにいる、僕と同じような喪男に承認してもらいたいからである。

一方で、女性からの承認というのは話が別である。背も低く、顔も悪く、甲斐性も大したことのない喪男は、当然に女性からの承認を受けられるに値しないことをよく知っている。

有り体に言えば、喪男は女性から見たらキモい存在なのである。そして一度キモいカテゴリに分類されてしまえば、そこから脱出することなどできない。

そうした努力はもはや無駄であり、徒労である。僕の貴重なパワーとリソースをたかだか女性からの承認を得るために消費してよいものだろうか。そんなことはない。僕は喪男なりに、底辺社会人なりに、もう何十年かの人生を生きていかなければならないのだ。そのためには、よく言えば浮上を、少なくとも社会的地位の現状維持をするためだけの最低限の努力をしなければならない。女性からの承認を得るというような成果の見込みのない領域にリソースを割いている余力などないのだ。そんなことはそれだけの可能性を持ったモテたい男がやっていればよろしい。

女性を好きになったことがなくとも、僕は生きていられている。今や僕は、僕の個人的な能力やビジネススキルにしか興味がない。こうした状態は喪男に精神的な安定をもたらす。この状態なら、僕は僕自身を承認できる。だから僕は生きていける。

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