とある喪男の雑記ブログ

喪男とはモテない男のことです。寝ることと知的ぶることが好きな、意識低い系喪男の雑記ブログ。流されることなく、流れるように、ゴミみたいな人生を、頑張らないで生きていく。全体的に低スペック。絶食系男子。鉄オタ。飛行機オタ。城址仏閣好き。

☆スポンサードリンク☆

なぜ僕は自殺してもいいのか【閲覧注意】

このエントリは、自殺というに言葉または現象に対して、「自殺はダメ、絶対!」みたいな言葉を脊髄反射的に投げつけるような、思慮の浅い鈍感な連中に対しての反駁として書いたものである。自殺することの是非すら自分の頭で考えることもなく、斟酌することもなく、常識的にしてはいけないからしてはいけない、という、浅薄な思考停止した俗物どもの自殺否定論を蹴り飛ばして、底辺喪男たる僕はどのように考えるのか。検証してみたい。

f:id:junny-policies:20180701213202j:plain

アンディー・ライリー著「自殺うさぎの本」より

そして同時に、タイトルこそ「自殺してもよい」という表現を用いたが、僕は積極的に自殺を推奨しているわけでもないことを説明しておかなければならない。ただひたすらに、僕自身は自殺してもよいだろうか、よくないであろうか、ということを、様々な観点から分析した結果、その帰結として、自殺してよい、という判断を下したに過ぎない。そもそも僕がこのテーマを設定したのは、自分が自殺することを意図したからであるし、自殺を考えることによって人生を考えるというプロセスを経てきたものなのである。

もし仮に、自殺を考えている人が読者としてこのエントリに流れ着いてしまったならば、自殺の是非を問う1つの判断材料になれば幸いである。

ショーペンハウエルの「自殺について」

ドイツの哲学者ショーペンハウエルは、著書(というよりも論文であるが)「自殺について」で、次のようなことをいっている。

一体誰にしても自分自身の身体と生命に関してほど争う余地のない権利をもっているものはこの世にほかに何もないということは明白ではないか。

ショーペンハウエルは、個人の命や体に対しての権利は個人のものであり、それをどのようにするかを決める権利は誰のものでもなくその個人のものだと言っている。自分の命など自分の意志でどうにでもしてよいと言っているのであり、僕たちにはそれぞれにその権利がある。なるほどショーペンハウエルに言われずとも、僕はそう思っているが、ドイツの大哲学者の考えと僕の到達した考えが同じであるということは、少々の満足感を覚える。

この「自殺について」はなかなか読み応えがあるので、ぜひ書店で手にとってほしい。

生きるとは、死ぬとは、何であるか

生と死を考える場合、生とは、自分の意思によって、自分の時間、所有物、そして自分自身の存在そのものを自由に処分できる状態であると定義することができる。また同時に、死とは、自分の意志によって、自分の時間または自分の所有物、付属物を自由に処分できなくなった状態と定義することができる。つまるところ、意志の存在の有無が、生と死を分ける1つの基準となると見てよいと思われる。

そして、例外なく、人間という種において、生の状態にある存在は、その時間的移行に伴って、ある特定のタイミングで、死の状態へと移行する。よって、生には必ず死がその帰結としてあらわれてくる。その意味で、生と死を分割して考えることはできないであろう。

この生死における不可分性から導き出せるのは、生きる権利や幸せになる権利が生きているものに無条件に認められるならば、同時に死ぬ権利も認められなければならないのであり、死ぬ権利を認めない者は、生きる権利を認めないという結論である。

人に対して生きる権利を認めない人など存在しない。しかし人に対して死ぬ権利を否定する、つまり自殺を認めない連中がいる。僕はこの、自殺を認めない連中の不合理性を指摘しなければならない。

自分を自由に処分する

さて、上記に書いたとおり、生とは、自分の時間または自分の所有物、付属物を自由に処分できる状態である。特にこの解釈について考察する必要がある。

自殺する、という意志が働くときを考察すると、次のとおりになる。自殺するということは、自分が所有しているところの生命維持装置あるいは臓器としての心臓、脳などの稼動状態を、自らの意思によって停止状態に移行させる、という一連の動作である。脳や心臓は自分の所有物であり付属物であるので、これを行うにあたり、意志の働きという意味において何の矛盾もない。僕たちは歩こうという意志によって歩くのであり、食べようという意思によって食べるのであり、自殺しようという意思によって自殺するのである。

全ての人間の意思は尊重されなければならない

全ての人間には意思があり、その意思によって人間の行動は決まってくる。

実のところ、僕たちの社会生活というのは、様々な制限の下に成立している。それは空間的であったり、物理的であったり、時間的であったり、能力的であったりするのであり、僕たちの意志と行動というのは、原則的にこれらの範囲内で決定される。しかし、その制限下において制限されるのは社会的な意思と行動のみに限られるべきで、個人的な意思と行動そのものは、少なくとも誰からの制限もかけられるべきではない。混んでいる地下鉄の列で並ぶか並ばないかの判断基準は社会的なものであり、並ばない場合の社会的な制裁に遭遇するリスクを考慮した上で並ぶという判断が下される。しかし、自殺するかしないかの問題は、限りなく個人的な意志の問題であるので、自分で好きに決めていいのである。

それをつきつめると、ある人はある人の意思によって自殺しなくてもいいし、僕は僕の意思によって自殺してもよいのである。個人的な意思に、他人の意志が入ってきていなければ、その意思は尊重されるべきであるし、またそこに、他人ごときの意思や判断など侵入させるべきではないのである。

世間一般の思慮の浅い連中は、この点を理解していない。その意思と行動が社会的判断なのか、個人的判断なのかの区別もつかず、ただ一般常識的な価値観にてらしあわせて、それが正しいか正しくないかの判断しかできない低能どもである。そもそもこういう連中が、人間の意思に対して、正しいか正しくないかの判断を下せる側であることを前提に話が進んでしまうところも、連中の誤りの増長につながることは指摘しておかなければなるまい。人間の個人的な意思に、正しいか正しくないかの概念はそもそも存在しない。なぜなら全ての人間の正不正の基準など、社会的なそれと違って、共通化・一般化などできるはずもないからである。

なぜ他人は自殺を止めようとするのか

視点を変えて、なぜ人が自殺しようとするのを他人は止めにかかるのかを考えてみる。それは極めて不誠実な理由、すなわち「自殺という事象に向き合った自分が悲しむから」である。あまりにも自分本位にすぎる。他人というのは、自分の周りの人間を自殺によって失いたくはなく、自殺が自分が認知できる範囲で行われると自分が苦痛に見舞われるのを回避したがる。

あまつさえ、自殺しようとする人の苦しみや諦観を理解し、共感者たりえようとすらする。自殺まで考えついた人間の苦しみが、何をどうして理解できるつもりでいるのか。人間の分際で人間を理解できるという認識があまりにも傲慢であることを、あの連中は自覚しない。自分という理解者の存在を、自殺しようとする人の存在理由にかこつけて、ただ自分の「悲しみたくない」という欲望を押し付けているだけではないか。

そんな思考があるかどうかは別にして、自殺を止めようとする連中にありがちな文句に、それぞれ反駁を試みよう。

親からもらった命を大事にしよう

親からもらった命だから大事にしないといけないと語る人もある。ただしその命は、すでに親のものではなく、その人のものである。よってそれを自分の意志によって、あらゆる方法で処分することは当然に許容される。親の存在や関係それ自体は、自殺を抑止する理由にはなりうるが、命を親からもらったという概念自体が自殺を抑止する理由にはなりえない。何しろ僕たちは、親に命をくれと要求してその命を手に入れたのではないのだ。僕たちは、受精という生理的事象によって生物学的な生を得て、その後の成長の結果として自分の存在を認知しているに過ぎない。その意味において、「親からもらった命」のそれ自体が欺瞞的であると反駁しうる。

命は地球より重いのだと語る人もあるだろう。それはその人にとって重いだけであり、自殺しようとする人にとっては羽のように軽い。そういう人は、自分の価値観と自殺しようとしている人の価値観が違うことを認識しなければならない。

あなたが死んだら悲しむ人がいる

あなたが死んだら悲しむ人がいると語る人もある。たとえば、今この文章を書いているこの僕の見知らぬ読者が自殺しても、僕はきっと悲しまないだろう。なぜなら僕にとってその人は知らない人だから。他人にとって自分の生き死になどどうでもよいことである。自分が大した人間ではないことを僕たちはよく知っている。ましてや、ある日初めて会ったようなカウンセラーだとか相談員だとかが、あなたの自殺を悲しむわけがない。その意味で、彼らがそのように語るならば、(私は悲しまないけど)あなたが死んだら悲しむ人がいる、と言っているに過ぎない。つまるところ、ただの他人事なのである。もしあなたに親兄弟も友人もいなければ、文字通り、あなたが死んでも悲しむ人は誰一人いないのであり、こんな文句で自殺を止めようとするなら、そういう可能性を一切考慮していないという意味で浅薄に過ぎる。

生きていればいいことがある

生きていればいいことがあると語る人もあるだろう。その「いいこと」を経験するために、どれだけの苦痛を新たに味わうか考えたことがあるか。またその「いいこと」が未来にあることを誰が保証するのだろうか。まさかこの語り手ではあるまい。神でも仏でもあるまいし。人によってはさらにそこへ「いいことがないのは君の努力が足りないせいだ」と畳み掛けてくる。もしかしたら本当に努力が足りないせいかもしれない。けれどもその努力を放棄したいという意思を捻じ曲げるつもりか。何様のつもりなんだ。傲慢すぎるぞ。

僕たちは誰の自殺をも止められない

自由意志による自殺であれば、その自殺は尊重されるべきである。そしてそれは誰にも止める権利などない。よって僕たちは自分以外の誰の自殺をも止める手段を持たず、自殺を止めるということは、自殺する人の意思に干渉し、その人の自由を奪うということである。例えば僕が、自殺を止めるという行為によって他人の自由を奪う!他人の自由を奪うということは、僕の自由が奪われることを許容しているようなものだ。それは受け入れられない。

だから僕たちが自殺する人にできるのは、結局のところ、話をして、納得してもらうことだけだろう。衝動的に自殺するのではなく、最後の最後まで自殺することに納得してから、実行してもらう。中途半端なままで自殺されてはたまらない。

そして僕はそんな方法などわからない。やはり僕は誰の自殺をも止められない。

☆スポンサードリンク☆