とある喪男の雑記ブログ

喪男とはモテない男のことです。寝ることと知的ぶることが好きな、意識低い系喪男の雑記ブログ。流されることなく、流れるように、ゴミみたいな人生を、頑張らないで生きていく。全体的に低スペック。絶食系男子。鉄オタ。飛行機オタ。城址仏閣好き。

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子供「なぜ勉強する必要があるのか」→嘘は嘘であると見抜くためだ

「なぜ勉強する必要があるのか」という究極の問い

おそらく20を過ぎた大人がこのような質問をすることはない。この質問をぶつけてくるのは、たかだか10年も生きていないような子供だろうが、こんな質問が子供から発せられるということは、その子供は何らかの理由で勉強に意味を見いだせなくなったか、あるいはもはや(あまりにも理解できなくて苦痛を感じて)勉強することから逃げたくてその理由を探しているか、場合によっては両方であるだろう。

よってこの手の質問については、まず「どうしたの?何かわからないことがあるか?」だろう。

だが、僕たち大人は、そんな簡単にこの問いをあしらってはならない。僕たちは、僕たちの子供が大きくなってこの世界で生きていくということになったとき、その世界に順応させるだけの能力を身につけさせるだけの教育を施してやらなければいけないからだ。

それは学校で学ぶ断片的な知識ではなく、情報化社会において接する有象無象の情報に対し、その真贋を判断する基準を提示するということである。

情報化社会

上述の文脈で使用したものの、「情報化社会」という言葉はもはや死語になってきてしまっている感がある。

情報。それは近年までは本やテレビ、あるいは敬老者から伝えられるものであり、それを取得する手段は限られてきた。だが今日では、インターネットと呼ばれる電子空間に無限大に存在し、誰もが時間を問わずそれにアクセスできる、巨大な社会的リソースとなった。世界中で、秒単位で何億バイトという情報が形成・公開され、その拡大速度はとどまるところを知らない。その利便性において、僕たち人類がそれを手放すような選択をすることは近い将来においておそらくないだろう。これから未来の世界を生きる僕たちとその次の世代の子供たちは、人類の英知の結晶たるそれらの情報と、上手に付き合っていく必要がある。

言うまでもなく、現在の僕たちの主要な情報収集手段というのは、PCやスマホである。僕たちはGoogleという検索エンジンを手に入れ、それを使えば世界中の情報にアクセスすることができる。よって、僕たちの情報の認知というのは、Googleによって定義されているといって差し支えない。

その意味で、知識そのものを所有すること自体の価値は、低下しつつあるといっていい。知識はその単語でググれば手に入るからだ。もはや年長者や経験者に尋ねずとも、PCやスマホからGoogleが教えてくれる。すると、僕たちが大切にしなければならないのは、知識そのものではなく、今自らが必要としている知識や情報について、それにアクセスできる方法を身につけることであるということができる。

情報は日々大量生産されるが、僕たちは当然認識しているのだが、それは玉石混交。中には真実でない情報も一定の割合で含まれている。人間も検索エンジンも一緒であるが、それらが提供する情報が正しいとは限らないことを、僕たちはよく知っている。あるいは、以前は正しかった情報が、時を経て正しくなくなってしまったということもある。

僕たち大人が、未来の世界を生きる者たちに語らなければならないのは、それらの情報を世界に送り出している大人の中には、故意にせよ過失にせよ、真実でない内容を発信する連中がいる可能性があるということだ。それはその情報を語る人間の程度の問題ではない。大人の世界では、何らかの理由で卑しくも白を黒であるというほうが都合のいい場合があるということだ。僕たちはそれを、ポジショントークとか、大人の事情と呼ぶ。

そうして手に入れた真実でない情報は、判断を誤らせ、最終的には自分も味方も窮地に陥れることがある。古今東西の(戦争的な)出来事において、そういう例は枚挙にいとまがない。それはすなわち情報戦そのものであり、その文脈において、未来の世界を生きる僕たちにとって、その情報の真贋を見分けるスキルというのは必須になってくると思う。僕たちはそのスキルを情報リテラシーと呼ぶ。

無知であるということは損をする

正しい情報を入手できないことも問題であるが、知らないということも問題である。

知らないということに関連して、「無知の知」とかいうソクラテスの言葉は現代でも通じるほどの含蓄があり、また「(自分がものを)知らないということを認知している」という点において、それは評価されるべき思考体系である。ただそれはあくまで「だからものを知ろうとする」という行動や態度がその後に続く限りの話であって、無知であることを誇るというものではない。

資本主義の中では、「知らない」という情報格差を利用して、様々な理由をつけて僕たちから金を取れるだけ取ろうとする連中が現れる。アパート賃貸の複雑な支払い義務とか、税金の還付とか、あるいは自治体の補助手当など。知らないたがめに損をするという例は数多い。大人はそういうことを教えてくれない。知らない方が悪いからだ。その意味において、無知であることは身を滅ぼす。損をしたくなければ、知らなければならない。

嘘は嘘であると見抜ける人でないと(生きていくのは)難しい

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どうやって嘘を見抜くのか。それを判定する手段としては、やはり知識をおいて他にない。

ある情報を認知したとき、僕たちは無意識のうちに自分の知識とその内容を照合し、その整合性を検証する。検証が問題なければその情報は正しいものとして判断され、その後の僕たちの行動の判断材料となる。その逆の場合というのは2つあって、自分の知識の不足または誤りによって整合性が取れない場合と、同じく自分の知識の不足または誤りによって整合性が取れていると認知してしまう場合がある。厄介なのは後者で、この場合においては自分の認知上は整合性が取れていると判断しているため誤りに気づかず、それが行動の判断材料となってしまうのである。

そのためには、やはり知識を身につけるしかない。知識の有無が、認知した情報に対して不整合であるという警告を与える。知識がなければGoogleから手に入れてくるしかない。果たしてせっかく手に入れた知識も、やはりそれが正しいかどうか判断しかねる場合もある。だから考えなければならない。そうして検証され尽くした情報だけが、真実性を高めていく。勉強する必要がある理由はまさにこの点においてである。勉強によって得られた知識は情報の検証の観点を増やし、それは情報の真贋を判定の精度を高くすることに繋がり、判断を誤る可能性を低減できるからである。情報をあるがままに受容してはいけない

大人の口から「汚い大人」を語る勇気を

子供が高校生くらいまで大きくなったら、今一度「なぜ勉強する必要があるのか」について語ってやるがいい。それまで大人は、学校教育において、未来は光と希望に溢れ、卓越した人間性をもつ理想的な大人による素晴らしい世界を形成しているものであると子供に教え込んできた。しかしこの「なぜ勉強する必要があるのか」に対して答える時、大人が大人の都合によって真実ではない情報を宣伝する場合があるという、理想的であることとは正反対の、汚い大人が身近に存在する世界を示してやらなければならない。残念なことにそれがこの世界の本質に近く、大人は大人を疑わなければ情報戦に敗北するということが語られるべきである。かつて希望に満ちあふれた世界を語った大人の口から、不正と疑いにまみれた世界が語られるのだ。当然大人は信用を失うのであるが、それはそれまで偽っていた大人が悪いわけであるので、自業自得というやつである。

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