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とある底辺喪男の社会評論

現代社会の様々な問題点や、政治、経済、金融、教育のあらゆる社会的分野について、好き勝手に評論する若干意識高めのブログです。ただし、論者は底辺喪男です。

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政治家「自己責任で」←税金徴収するのやめろ

自己責任。政治家がこの言葉を使うことは極めて危険である。この言葉が独り歩きし始めたのは、2004年に発生したイラク日本人人質事件の頃であると思うが、この頃からしばしば耳にするようになった。なぜ僕は、自己責任が政治家によって高らかに語られることに危機感を覚えるのか。

端的に言って、この自己責任という言葉の危険性というのは、この言葉1つで、社会におけるあらゆる問題が、正面から観察されなくなりうるということだ。自己責任というのはとても便利な言葉である。他人や社会に対して自分が負うべきあらゆる責任を、そして他人や社会が自分に対して負うべきあらゆる責任を、その一言のもとに一蹴できる使い勝手のいい言葉だ。国民年金に加入していても老後に年金をもらえないのは自己責任であるし、雇用状況とか景気が後退して職を失ったり職が見つからないのも自己責任だし、老いた両親の介護に追われて心身ともに疲れ果て廃人同然になるのも自己責任だし、あらゆる理由でシングルマザーが子供を大学に行かせられないのも自己責任なのだ。

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自己責任論といえばこの人。自民党青年部会では、医療や教育について自己責任論を展開している。自己責任を全面に押し出すのはいただけないが、既得権益に切り込む鋭い発言もある

そもそも自己責任とは何か

本来自己責任というのは、自分の個人的な言動を起因として発生したすべての事象に対して、その因を自分に帰する、という理論である。これ自体は全く疑いの余地もなく正しいことである。そしてこの自己責任論というのは、例外なく、あくまで「自分の個人的な言動を起因として発生したすべての事象」に対して適用されるべきであり、それ以外のすべての事象に対して適用されるべきではない。

政治と政治家の役割とは何か

大前提として、政治の役割とは何かを明確にする必要がある。政治の役割とは、ある社会的共同体において、その構成員の生活を生存を保障することである。日本においては、中世から近代にかけて、その役割を幕府や朝廷や天皇(と帝国議会)が担ってきた。日本国になってからは、普通選挙で選ばれた政治家と呼ばれる連中がその役割を担っている。政治の役割の本質的なところは何も変わっていなくて、1つは子供・老人・障害者などの社会的弱者の保護、もう1つは犯罪者・異端者などの社会不安要素となる人物や物品の排除である。これらを国民に平等に提供するにあたって、法の下の平等という概念があるのである。社会的共同体の構成員であれば、平等にその政治による保護を受けられるということである。その保護機能と排除機能を稼働させるために税金という運転資金が必要なのであり、それは、社会的弱者の保護にあたっては教育とか福祉とか医療に支出され、犯罪者や異端者の排除機能にあたっては警察や公安や軍隊や司法などに支出されるのである。
国民は税金を支出することにより、政治に自らの社会的な、そして人権的な安全保障を委ねているのである。これをまとめたのが、行政サービスと呼ばれる概念である。

もし政治家が自己責任を突きつけることにより国民の生活と人権を保護しないというのであるならば、国民はあらゆる手段で自ら生活と人権を防衛しなければならない。本来であれば、上記の通り、これは政治の役割であるのだ。そこに自己責任という概念は本来存在しないのであり、政治はその国民の代わりに生活と人権を防衛しなければいけない義務がある。政治家と呼ばれる連中に対しての高額な報酬はその義務の対価であり、政治が国民の生活と人権を防衛しないのであれば、それは政治機能の稼働停止であり、それは政治家としての職務放棄である。

自己責任が暴走したらどうなるか

観念論的な話ではあるが、政治が機能しなくなれば、どうなるか。政治の保護がなければ、国民は自らの責任のもとに生活と人権を防衛しなければいけないのであるから、自ら犯罪者や異端者を追放し、殺害し、物品を破壊するだろう。それは、人が私的に追放し、殺し、壊し、あるいは追放され、殺され、壊される社会である。それを社会的共同体の全ての構成員が行うならば、それを人は無法地帯とか無政府状態とか呼ぶであろう。悪いことに、一方でこの政治家連中は税金を徴収しないわけではないため、そんな状況でありながら税金だけは徴収され、政治家共は職務に携わらないでも自らの生活を保障することができる。そんな社会で僕は生きたくない。だから税金を払って、僕は政治による保護を求めているのである。

非社会的国民の自己責任論

厄介なことに、こういうことを宣(のたま)う連中というのは政治家だけにとどまらない。訳知り顔で自己責任を語る国民も一定数存在する。自分の払った税金が見知らぬ他人のために使われるのが我慢ならないのだ。まぁ分からないでもない。ある人が働いて働いて税金を払った上で政治による保護を享受するのに対し、別のある人は、様々な理由によって働かずに税金も払わずに政治による保護を享受するのだ。不公平であるように思えるのだろう。そんなふうに頭に血が上っている状態なものだから、自分のその発言がどれだけ社会的共同体にたいして破壊力を秘めているのか、考慮することもないのである。この愚かな連中は、ある社会的弱者がいて、その社会的弱者が社会的弱者たる原因をその特定の人間に帰し、社会構造や社会制度そのものの問題点には着目しないか、またはそれを認識しても意図的に見逃すのである。自分がある日突然社会的弱者になる可能性すら考慮できない貧弱な想像力!非社会的!これを社会性の欠如と言わずしてなんと表現するべきだろうか!

名もなく思慮もない一般国民が自己責任論を語るのは、まぁそれは個人の思想の自由だからいいのだけど、民主主義国家において、この連中が無条件に選挙権を保持しているのは悲惨なことである。この連中に選挙権を与えても、社会の維持と発展においてはそれを阻害するだけに違いない。
こっちのほうが深刻な問題で、それは政治家の分際で自己責任論を語る連中が、一定数存在することである。政治家の分際で自己責任論を語ることは、その政治家が非社会的であり、社会的共同体の構成員の生存にも、人権にも、健康で文化的な生活を保障することに与することはないし、その能力も資格もないと宣言しているようなものである。このような政治家を政治家の職に就けてはならない。

か弱き僕と政治との保護被保護関係

それに、少なくとも僕は、無条件で僕の人権と生活と生存権を保護してほしいと訴えているわけではない。むしろ、税金をその媒体として、政治と国民個々の間に、保護被保護の関係を健全に構築しようとしているのである。僕は労働し、少ないながらも自分が課せられた範囲の税金を全うに納めているのであるから、それに値する保護を求めているに過ぎない。その意味で、僕は政治家連中に対して極めて協力的である。だから、それを一方的に見放すような発言を政治家連中にしてほしくないし、それをされたら政治家を信用できなくなる。何しろ、自己責任論を振りかざす政治家が、そのかわり税金も不要であると語ったことはかつて一度もないからだ。彼らはやはり、可能な限り行政サービスを縮小し自分たちの手間仕事を減らした上で、自分の報酬として懐に入る金の量は担保しておきたいのだと僕は解釈する。

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