非モテ恋愛弱者のブログ

旧「非モテ系のままで生きていくブログ」から、恋愛弱者男性ブログに進化しました。レベル36の限界中年/異常独身/非モテのブログ。もう人生折り返しました。残りの人生を頑張らないで生きていこうと思います。なおこのブログには、モテる方法は1つも書いていません。

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愛国心を道徳で教えることに全力で反対したい

忠君愛国とは、君主に忠義を尽くし、国を愛することであるが、どうもこの国には、国の愛し方を理解していない連中が多いようである。

象徴天皇制による立憲君主政が布かれている我が国では、現在の主権者は国民であるから、君主に忠義を尽くす必要性はなくなった。ついでに言うと、天皇は実は尊敬する必要も敬愛する必要も、法律上はない。天皇を尊敬したり敬愛したりするのも、あるいはそうしないのも、あくまで個人の信条の問題であって、それは誰からも強制されるものではない。だいたい現代において無条件に尊敬しなければいけないものなど存在しない。事物の価値は時の流れによって変化するものだからだ。

このように書くと僕がまるで天皇を尊敬も敬愛もしていないように思えるが、実はそうではない。僕は日々を暮らすのに精一杯で、天皇のことを考える余裕がないし、また天皇が僕に何かをするわけではないし、あるいは僕が天皇に何かをすることもない。つまるところ、僕は天皇に対して、全くの他人に対しての関心度しか持ち合わせていない、というのが実情だ。

そして、僕のことだから、多分ある日突然目の前に天皇が現れようものなら、即座に右膝をついて臣下の礼を取るに違いない。こうなるともはや理由がわからないが、そうしようと体が反射的に反応するだけの敬意は心のどこかで持ち合わせていることの証左であることとしたい。

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ネット右翼の愛国は歪だ

そもそも愛国とは何であるか。自分の国家のやること為すことを盲目的に正しいと信じ、そうではないと反駁する連中を売国奴とか非国民とか断じることだろうか。

ネット右翼ネトウヨと呼ばれる人種がある。僕の理解では、2ちゃ○ねるとかヤフーニュースのコメント欄に出没し、自民党産経新聞を信奉し、主に中国と韓国を罵倒するコメントを載せる連中のことだが、彼らが現実世界に現れる際は、日章旗旭日旗をかたどったアイテムを身に着けていることが多い。「」とか「」みたいな鉢巻を巻いていたりする。彼らは時折寄り集まり、「中国人と韓国人は日本から出ていけ、皆殺しだ」と練り歩くなど、特定の国に対して異様な攻撃性を見せる。

ネトウヨどもが勘違いしてはいけないのは、日本国憲法では、表現の自由とか、思想・良心の自由が保証されてはいるが、それに対して受けうる不利益については同憲法では擁護されていない点だ。ネトウヨどもがどのような形であれ自分たちの差別的信条を表現する自由は保証されているし、それを(それに相容れない)僕達も保証する必要はある。けれどもそれを行ったことによってネトウヨどもが何かしらの不利益を被ったとしても、それをネトウヨどもは甘受するべきであるし、それを覚悟した上で差別的表現を行うべきなのだ。

別に日本はすごくない

ネトウヨどもは、日本が素晴らしい国であり、その他の国々は日本に対して何らか劣っているものとみなす。特に中国、韓国、東南アジアの国々に対してそうであり、彼らが主に経済力的に日本に劣っている点を指摘する。日本には四季があり、料理が美味であり、安全な水道水が確保できる。日本人は礼儀正しく、親切で、清潔である。それらは全て日本の国力がもたらしたものであり、日本はこの世の楽園のような場所であるとすら思っている。

僕から言わせれば、北緯35~50度域の地域にはだいたい四季があるし、また料理ならば中華料理だって韓国料理だって、イタリア料理だって、エスニックな東南アジア諸国の料理だって美味いものは美味い。まぁ確かに水道水が飲めるのは日本だけかもしれないが、その他の国ではそもそも水道水を飲む習慣がなく、ジュースやミネラルウォーターが水分摂取の一般的な方法となっているところもある。

日本人が礼儀正しいのは、集団から爪弾きにされないための自己防衛であるし、和を乱さないために空気を読んだ結果とも言える。礼儀正しさというのは、背景に相手への尊敬・尊重が本当にあるかどうかが重要であるが、一方で日本人というのは陰湿な陰口や噂話が大好きでもある。そういう側面がありながら、礼儀正しさがあると語れるだろうか。表面を取り繕っただけとも言えるのではないか。

親切なのは、困っている人を見かけたら、助けなかったら自分が後ろ指をさされる可能性を考慮して助けるだけだし、その可能性がないならば見向きもしない。電車で貧血で倒れた女性を救出するため電車が遅延したとき、会議に間に合わない原因を作ったその女性を、怒りを込めて睨みつけることのないサラリーマンがどれだけいるだろうか。

日本には四季があり、春は梅や桜などを眺めて皆で屋外で宴会をする「花見」とよばれる行為を好む日本人が多いが、彼らがその美しい花を咲かせた木の下に、弁当や酒の残骸を放置して帰るさまを見ても、日本人が清潔であると言えるだろうか。

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だいたいネトウヨどもが誇りとしている経済力だって、ここ30年それは停滞気味だし、その間にGDPは中国に追い抜かれたではないか。経済成長率だけでいえばアジアどころか世界最低クラスで、中国やインドネシア、タイ、ベトナムなどの成長率とは比べ物にならない。だが、そういう都合の悪いことを彼らは見ようとしないし、理解しようとしない。ここに欺瞞というか、不誠実さというか、ご都合主義的なものを感じざるをえない

細かな事例を挙げればいくらでも反証できるのだが、重要なのは、「日本はこんな国」とか「日本人はこういう人種」と、一般化・普遍化してはいけないという点だ。そうしてしまうと、様々なものを見誤ってしまう。

差別主義者が愛国者を名乗ってはいけない

僕からすれば、愛国者を名乗り、特定の国と国民を排撃するなど、愛国者の名を騙った差別主義者でしかない。

愛国心の本質は、他国と自国の差を認識し、自国と他国、両方共尊重するという点だ。よって、自国が愛国によって信奉されても、それによって他国の政府や文化、国民が攻撃されることはあってはならない。この点をネトウヨどもは理解していない。妄信的に自国の政府と文化などを崇め奉り、特定の国家の話題になった途端に脊髄反射的にその国家と国民を非難する。何度でも言うが、彼らはただの差別主義者でしかない。

現在世界で日本と公式な国交のない国、あるいは承認していない国は、台湾、北朝鮮パレスチナ自治政府など10にも足らず、それ以外の国とは、日本は何らかの形で関係を結んでいる。それらの国との関わりがあるのが当然であり、それらの国は日本とは異なる歴史を歩み、異なる社会を構築し、異なる文化で生活している。それらをいちいち排斥していたらキリがないし、そもそも日本社会自体が、それらと共生せずして成り立たない。これをグローバリゼーションとか、多様化という意味でダイバーシティとかいったりするが、現代はそれらを組み合わせて最適解を探っていく時代だ。ここにもネトウヨどもの無理解がある。彼らは時代遅れなのだ。ロートルなのだ。アナクロなのだ。

国家に盲従することは愛国的ではない

愛国者と呼ばれる連中の中には、現在の政府を盲目的に支持し、それに反対する勢力を迫害する者どもがいる。これもやはり誤った態度である。

愛国的であるということは、国際社会において尊重され、他国を尊重し、かつ自国の発展に寄与する国家づくりを政府に要求するべきであるし、国家がそうでなければ、容赦なくそんな政府を断罪できる姿勢を見せるということである。古代中国の帝政下でも、中近世ヨーロッパの絶対王政下でも、近代日本の徳川幕府下でも、その君主が誤れば臣下が君主に様々な献策を行い、それをただしていったではないか。彼らは明らかに愛国者であった。一方で君主に阿諛追従の大臣どもは、その時は君主の寵愛を受け身分が保障されたとて、その後の歴史では奸臣佞臣と断じられ、未来永劫にわたって不名誉な評価を受け続けてきたではないか。ネトウヨというのはこの奸臣佞臣どもと同じで、政府が何をしようともそれにおもねって身分の安定を保障してもらおうと目論んでいるに過ぎない。それが国家政府に対しての誤った態度であることは、これまでの大国の歴史が証明している。ネトウヨどもというのは、歴史に学ぶことすらできない愚かな連中なのだ。

その時の政府それ自体が重要なのではないのだ。その時の政府が国民のために何をしたかが重要なのだ。つまるところ、政府それ自体が愛国的でなければならない

愛国心はどのように育成されうるか

愛国心は、内発的でなければならない。外発的な愛国心については、それは根拠の有無にかかわらず洗脳であると定義して差し支えない。例えば学校で「自分の国は世界で最も優秀で、他は劣っている」と教えられて、それをそのまま信じて大人になったならば、グローバリゼーションの進んだ社会からはそれこそ排撃されるだろうし、そうでなくともそれを覆す何かしらの経験があってしかるべきだ。それがなく、ネトウヨ的思考のまま大人になったならば、それは知性の欠如であり、無理解の極みである。

愛国心の発露は、自分の国と外国を比較し、分析し、その違いを見出すことにある。外国に対して自分の国が優れている点と劣っている点をそれぞれ見出し、自国の優れている部分をさらに伸ばし、劣っている部分を改善していくという、極めて建設的な思考プロセスの中で発生するものである。

もし国家政府が、国民に愛国心を育てたいと思うのであれば、国民に対して様々な行政サービスを提供し、「この国の国民で良かった」と思わせる必要がある。それは子育て支援であり、教育支援であり、雇用支援であり、社会保障であり、経済的に、文化的に成熟した生活を営めるだけの社会環境の整備を行わなければならない。そのように社会生活が安定してはじめて、国民は国家政府に好意的になり、それが愛国心へ昇華していくのである。

だから僕は、公教育における道徳教育とかで、愛国心に評定をつけるというのには、大反対だ。それは外発的な愛国心であり、すなわちそれは洗脳であり、思想・良心の自由を侵犯しており、「この国が好きでない」という多様性の1つを押しつぶすものだ。そうだ、何一つ合理的な理由がない!
教育改革としてそんなことを推進するようなどこぞの政党など、支持するに値しない。僕が求めるのは、愛国心を教える政党ではなく、愛国心が育つ環境を整備できる政党だ。

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